先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」

驚くほど役に立つ「名言集」では、世界の名言・金言・格言・故事・ことわざをご紹介します。

夢なき者に理想なし・・・ / 吉田松陰

      2015/08/14

2015.01.09-Vol.0662
—————————————————————–
■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
—————————————————————–
★今日の名言★
=================================================

夢なき者に理想なし、

理想なき者に計画なし、

計画なき者に実行なし、

実行なき者に成功なし。

故に、夢なき者に成功なし。

<吉田松陰>

250px-Yoshida_Shoin2

「小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、
自分への約束をやぶる者が
もっともくだらぬ。」

「一つ善いことをすれば、
その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、
それは自分のものとなる。」

「一日努力すれば、
一日の効果が得られる。
一年努力すれば、
一年の効果がある。」

「過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。」

「自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる。」

「学問とは、
人間はいかに生きていくべきかを
学ぶものだ。」

「君子は何事に臨んでも、
それが道理に合っているか否かと考えて、
その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、
それが利益になるか否かと考えて、
その上で行動する。」

「敵が弱いように、
敵が衰えるようにと思うのは、
皆、愚痴もはなはだしい。
自分に勢いがあれば、
どうして敵の勢いを恐れようか。
自分が強ければ、
どうして敵の強さを恐れようか。」

「学問をする眼目は、
自己を磨き
自己を確立することにある。

「学問の上で大いに忌むべきは、
したり止めたりである。
したり止めたりであれば、
ついに成就することはない。」

=================================================

◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

至誠(しせい)・・・きわめて誠実なこと。まごごろ。

=================================================

※喫煙室(雑談コーナー)

今年1月4日から放送されている新番組、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が
評判になっている。私も楽しみにしているのだが・・・。

物語の主人公は吉田松陰の末の妹である杉文(後に久坂玄瑞の妻)で
、主演を務めるのが井上真央である。

兄である吉田松陰と久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔、桂小五郎、品川
弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜながら、幕末か
ら明治維新へ向けた激動の時代を描いていくという謳い文句である。

キャッチコピーは「幕末版男はつらいよ」「イケメン大河」「セクシ
ー大河」「幕末男子の育て方」が挙げられているという。

皆さんもご存じの松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期
に松陰の叔父である玉木文之進が設立し、後に長州藩士の松陰が講義
した私塾である。

武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れ、後に明治維新で新政
府に関わる多くの傑出した人物を輩出している。

「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」

松陰が好んで用いたとされる言葉だが、元は孟子の言葉である。

誠心誠意をもって物事に対処すれば、どんな難局であろうと事態は必
ず改善されるものであり、状況が打開されないとするなら、自分の誠
意が足りない為に天に通じず、人の心を動かすことが出来なかった為
である、という意味である。

☆——————————☆

吉田松陰

吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想
家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者
・理論者として知られる。

[生涯]

文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の
次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範であ
る吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため
、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の
時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことによ
り、その才能が認められた。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎と
ともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「
文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを、父が音読
し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読
ませた。

しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学
が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年
(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事
する。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、
出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行
を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で
日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作
事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外
国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世
禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久
間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決
意。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍
艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギ
リスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗(一
説ではプチャーチンの暗殺を計画していたともいわれる)。

安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際に
は金子と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して
密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたと
もいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が
幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後
、伝馬町の牢屋敷に送られた。吉田松陰は、足軽の金子重輔と二人で
、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ
寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に
、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、
吉田松陰は幕府に自首した。この密航事件に連座して佐久間象山も投
獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にし
ようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助
命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とそ
の思想的背景を『幽囚録』に著す。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉
家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄
瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠
、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。 なお、松陰の
松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と
一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうと
いう「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したこと
を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計
画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)ら
は反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕
府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている
。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、
評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。

[思想]

[一君万民論]

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、
藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」
という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下
に万民は平等になる。但し、天皇のために万民が死にもの狂いで尽く
す事が必要である。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過
激な思想であった。但し、天下は万民の天下なり、という国家は国民
の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点から
すれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判も
ある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。

[飛耳長目]

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが
松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州ま
で脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに
触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送
り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特
別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳
長目」に負う所が大きい。

[草莽崛起]

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指
し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がる
ことを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。

安政の大獄で収監される直前(安政8年(1859年)4月7日)、友人北山
安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶
持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の
徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩
を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如く
なれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

[対外思想]

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり?略足らば、則ち宜しく蝦
夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じてカムチャッカ・オホーツクを
奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責め
て質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南
は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し
、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日
本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲・台湾・フィリピンの領有
を主張した。松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活
躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を
与えることとなった。

[発言]

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

志を立ててもって万事の源となす

志士は溝壑に在るを忘れず

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉田松陰の本
自己啓発書のベストセラー

——————————

★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

「LOVEからHOPEに」

ニューヨークを訪れた方はご存知だと思いますが、観光客の撮影スポ
ットになっている6番街55丁目にある赤い巨大彫刻は1964年の作品が「
LOVE」から世界の希望を願って「HOPE」に変わりました。

作者ロバート・インディアナさん在住のメーン州をはじめベネチア、
ミュンヘンでも展示されます。
Keiko

★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?
1月7日に七草粥は食べられましたか?

七種粥(ななくさがゆ)とは、人日の節句(1月7日)の朝に七草を入
れたお粥を食するという日本の伝統的な行事です。

お正月の暴飲・暴食などで弱った胃腸など内臓をいたわる効果やビタ
ミン不足を補う効果があるといいます。無病息災を願って食する生活
の知恵だったのでしょうね。

☆「春の七草」
1.芹(せり)川辺・湿地に生える
2.薺(なずな)ペンペン草
3.御形(ごぎょう)母子草。
4.繁縷(はこべら、はこべ)小さい白い花。
5.仏の座(ほとけのざ)正しくは田平子(たびらこ)。
6.菘(すずな)蕪(かぶ)。
7.蘿蔔(すずしろ)大根。

☆「秋の七草」
1.萩(はぎ)
2.尾花(おばな)/薄(すすき)
3.葛花(くずばな)/葛(くず)
4.撫子(なでしこ)
5.女郎花(おみなえし)
6.藤袴(ふじばかま)
7.朝貌(あさがお)「朝顔」ではなく「桔梗」であるとの説が定説。

「秋の七草」は、山上憶良が万葉集の歌で選定し今に至っています。

万葉集
山上憶良(やまのうえのおくら)

「秋の野に 咲きたる花を
指折り(およびをり)
かき数ふれば
七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花葛花 撫子の花
女郎花 また藤袴
朝貌(あさがお)の花」

源太は好き嫌いがありません。何でも食べます♪
源太は我が家の愛犬です。

 - 吉田松陰, 日本人の名言

スポンサードリンク

スポンサードリンク

Message

  関連記事