先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」

驚くほど役に立つ「名言集」では、世界の名言・金言・格言・故事・ことわざをご紹介します。

キザな言い方だが、講演するときもこのあと私はきっと死ぬのだと・・・ / 淀川長治

      2015/08/14

2014.04.11-Vol.0623
—————————————————————–
■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
—————————————————————–
★今日の名言★
=====================================================

キザな言い方だが、講演するときもこのあと

私はきっと死ぬのだと自分に言い聞かせることにしている。

するとその講演に命をかける。

二時間がまるで20分ぐらいの勢いでしゃべってしまう。

講演の後は汗でびっしょりだ。

けれども不思議なことにこの方が疲れない。

思いっきりやったという私だけの満足感が疲れを忘れさせる。

<淀川長治>

=====================================================

◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

満足感(まんぞくかん)・・・満ち足りたという感じ。

=====================================================

※喫煙室(雑談コーナー)

私が子供の頃、テレビで「日曜洋画劇場」という映画を放送していた
のだが、いつも私はその番組を楽しみにしていた。

淀川長治は、その番組の最初と最後に洋画の解説をしていた名解説者
である。

その独特な風貌と語り口で、いつもの名調子で32年もの長きにわたり
映画の解説を続けてこられた不思議な魅力を持つ人物だった。

特にヒッチコックの作品や恐怖映画の後で、「怖いですねえ、恐ろし
いですねえ」とか番組の最後に「それでは次週をご期待ください。サ
ヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・」と濃い眉毛を動かし手を小さく
降りながら番組を締めくくる言葉と仕草は淀川の真骨頂といえるもの
であり、今でも語り草とされている。

いつも最後の解説まで見てしまうのは、淀川氏の魅力によるものが大
きかったような気がする。

生涯独身を貫き、決して幸福だったとは言えない人生を送った淀川長
治だが、常に心の片隅に「死」への思いがあったことをどう考えると
良いのだろう。

淀川氏の名言をもう一つ載せておこう。
今日一日を大切に生きようという思いが伝わってくる。

「人間が生きるということはどういうことかといつも考える。
すると死ぬことだということに帰着する。
死ぬとわかれば今日この一日を十分に生きねば損だと思う。」

☆——————————☆

淀川長治

淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 – 1998
年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画
評論家である。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨ
ドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナ
ラおじさんとして親しまれた。

[プロフィール]

[少年時代]

兵庫県神戸市にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅう
のもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、
自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦した
のだった。本妻は、生まれてまもない淀川を病床で抱かせてもらい、
安心したように数日後に永眠。実母がその後、本妻になった。姉が二
人と、弟が三人いる。

映画館の株主だった親の影響で子供の頃から映画に精通。母・りゅう
は湊川の活動写真館で喜劇映画を見ていたときに産気づいたという。
旧制の兵庫県立第三神戸中学校(現兵庫県立長田高等学校)を卒業後
、慶應義塾大学文学部の入試に失敗し、日本大学法文学部美学科予科
に籍を置くが出席せずに中退。なお、中学時代には、自ら企画して毎
月の全校生徒による映画鑑賞を実現させている。

[映画人に]

日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねてから投稿を
行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て
、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929
年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラ
ール・エヴァンタイユ」で勤務する。

その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーテ
ィスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(
昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功
している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者
と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切
に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督
の『駅馬車』の宣伝などを担当する。

1941年(昭和16年)12月の日米開戦後の1942年(昭和17年)に東宝映
画の宣伝部に就職。この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と
出逢い、生涯の親友となった。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終
結後には、アメリカ映画の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレク
チャー部に勤務する。その後、1947年(昭和22年)に雑誌『映画の友
』に入社し、編集長を経て、映画解説者・映画評論家として活動を開
始。『映画の友』時代の部下には小森和子、写真部長には有名なカメ
ラマン早田雄二がいた。

なお、1951年(昭和26年)に『映画の友』の仕事でハリウッドに向か
った淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリ
カン航空のボーイング377の機内でクラレンス・ブラウン監督と邂逅し
、機内のラウンジで話し込んだほか、ハリウッドに滞在していた際に
は、アカデミー賞にノミネートされていた黒澤明の「羅生門」の代理
出席者として、授賞式に招待された。

1948年(昭和23年)には映画好きの若者を集めて「東京映画友の会」
(当初は「『映画の友』友の会」)を結成。1993年(平成5年)まで映
画の魅力を教え続けた(「友の会」は現在も、他メンバー主催で継続
)。この「友の会」には以下の3つのスローガンがあり、淀川も著書内
で「自分の信条」として書いていた。だが晩年、「ぼくがモットーに
してた三か条なんだけれど、実は大嘘なの。ぼくは年中、三か条に反
する生き方をしていた」と弟子に打ち明けた。

「私は未だかつて嫌いな人にあったことはない」
「苦労歓迎」
「他人歓迎」    <以下略>

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

淀川長治の本
自己啓発書のベストセラー

——————————

★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

Flower Show

世界最大のデパートといわれているMacy’sで恒例のフラワーショーが
ありました。

マンハッタン、34丁目のヘラルドスクエアー店で開催です。
今回のテーマは「シークレットガーデン」<秘密の庭園>

このショーには世界各地から取り寄せられた花・植物がデパート内に
所狭しとあふれています。

細い小さな花びらの桜の木もありましたが、ブロードウェー側正面入
り口には赤い花のロングドレスの巨大像が展示され来場客の目をひき
つける素敵な作品の一つでした。

カーネーション、バラ、ガーベラ、アンスリウムなど全て赤い花で飾
られていました。

女性なら一度はこのようなドレスを着たいという憧れを持っているの
ではないでしょうか。
Keiko

★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?
日本ではノーベル賞級の発見をしたSTAP細胞の小保方晴子さんの会見
が注目を集めています。小保方氏の画像の切り貼りや再現性などが問
題にされています。目に涙を溜めて必死に自説を展開する小保方氏に
同情を感じますが、科学者の間では論文の日付や科学的な裏付けなど
の疑問で否定的な意見が大半を占めているようです。
しかし、指導教授や理化学研究所の責任はどうなるのでしょうか?
日本の科学研究の資質が問われているのです。
STAP細胞のアイデアを考えた小保方氏にはSTAP細胞を再現して論文の
正当性を証明する義務があります。応援しているのですが・・・。

消費税が5%から8%に上がり庶民の生活を圧迫しています。
源太は全く知らんぷりです^^;

源太は我が家の愛犬です。

 - 日本人の名言, 淀川長治

スポンサードリンク

スポンサードリンク

Message

  関連記事