佐久間象山 日本人の名言

たとえ完全勝利を得たとしても国を戦場にするは上策に非ず・・・ / 佐久間象山

投稿日:2020年1月31日 更新日:

2020.01.31-Vol.0929
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■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
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★今日の名言★
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 たとえ完全勝利を得たとしても

  国を戦場にするは上策に非(あら)ず。

 自然とわが国を恐れ、

  つけいる気をおこさせないのが最上の策である。

              <佐久間象山>

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◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

そしる(謗る・譏る・誹る)・・・

悪しざまにいう。わるくいう。非難する。けなす。

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※喫煙室(雑談コーナー)

佐久間象山は、勝海舟や吉田松陰に大きな影響を与えたとされる幕末の
思想家・教育者である。

嘉永4年(1851年)、江戸で砲術・兵学を教える「五月塾」を開塾するが
、その「五月塾」に勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後に時代を作る逸材
が続々と入門している。

その独特の風貌と人物評を勝海舟は以下のように述べている。

「佐久間象山は物識りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ
。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしめた
らどうだろうか・・・。何とも保障ができない。顔つきからして既に一
種奇妙なのに、平生緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、如何にもおれ
は天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強いおとこ
だから、漢学者が来ると洋学を以て威しつけ、洋学者が来ると漢学を以
て威しつけ、一寸書生が尋ねてきても、直きに叱り飛ばすという風でど
うも始末にいけなかったよ」

「あれだけの男で、随分軽率のチョコチョコした男だったが、時勢に駆
られたからでもあろう」<Wikiより>

口の悪い勝海舟らしい物言いだが、核心を突いた面白い人物評である。

詳しくは後段のWikiをご覧頂きたいが、象山は後に尊王攘夷派から和親
開国に立場を変えたことにより暗殺されることになるのである。

1864年8月、幕末四大人斬りの一人、河上彦斎らの手により暗殺されるの
だが、因みに幕末四大辻斬りとは、「人斬り」の異名を取る尊王攘夷派
の4人の志士の呼称で、田中新兵衛・河上彦斎・岡田以蔵・中村半次郎を
指す。

以下、佐久間象山の残した名言をご紹介したい。

★人々が何を言おうと、怖(お)じることなく、
 心中はいつもやすらかです。
 これも今までの修行の成果でありましょう。

★兵は国の大事、死生存亡のかかる所である。
 成算なくしてみだりに兵を動かす者は、
 国家と国民の生命をあまりに軽く考えている。

★政治とは人で決まるものなのです。
 その才を有するものが一人おりますれば、
 一国の政治は一気に好転いたしましょう。

★天下の大計を知らず、
 国の財用を費やし、
 以てこの無益の務をなすは、
 そもそも何ぞや。

★時にあわば 散るもめでたし 桜花

★謗る(そしる)者は 汝の謗る(そしる)に任せ
 嗤う者は 汝の嗤うに任せん。
 天公 本我を知る 。他人の知るを覚めず。

         ☆—————————————-☆

佐久間象山

佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩
士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(く
にただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめ
い)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家
で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。

[家系]<省略>

<生涯>

[幼少期]

文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男とし
て信濃埴科郡松代字浦町で生まれる。

前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主
の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松
代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾
に当たる。

象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの
佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな
期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助
と名づけたという。

門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸(約175cm)くらいの
長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し
窪く瞳は大きくて炯炯(けいけい)と輝きあたかも梟の眼のようであっ
たため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。

[学者への道、そして 仕官 – 国元での活動]

象山の烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久という郷里の大先輩で藩儒を務
め、象山の才能を高く評価した人物である。

1824年、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、1826年、佐藤一斎の門
下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同年、藩士の町田
源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称した
という。また水練を河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与
えたのは鎌原桐山だったという。

文政11年(1828年)、家督を継いだ。天保2年(1831年)3月に藩主の真
田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の
父に対して孝養ができないとして5月に辞任している。しかし幸貫は象山
の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山
は漢文100篇を作って鎌原桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学
業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。

天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸
貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿
を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けた
にも関わらず、象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、
長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである。この閉
門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した
。国善はその5日後に死去している。

[江戸出府と兵学家の地位確立]

天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎
に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるに至
る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの
、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江
戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教
えていたのは儒学だった。

天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防
掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争 (1840 – 42) での
清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、魏源『海国
図志』などを元に『海防八策』を上書、さらにこれを機に蘭学の修得の
必要に目覚め、弘化元年(1844年)、オランダ語をはじめ、オランダの
自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。これにより主君幸貫から
洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は塾を閉じ江川英龍
の下で兵学を学ぶことになる。

江川は象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短
期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法
では支障があった。このため象山は、意を汲んだ同じ高島流の下曽根信
敦から文書を借り学習を進めた。象山の教育に対する態度は近代的で、
自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。象山自身の門弟から
「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断
っている。

学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことがで
きる。

「宇宙に実理は二つなし。
 この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。
 鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。
 近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、
 まさに以って我が聖学を資くる足る。」

しかし真理に忠実であろうとする象山の態度は、当時の体制及び規範か
ら見れば誤解を受ける要因ともなった。

象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を
背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導
入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して
木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田
松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している。

嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は藩の軍議役と
して浦賀の地を訪れた。この報告は江戸幕府老中阿部正弘に『急務十条
』として奏上され、この機に松陰に暗に外国行きを勧めたとされる。

[失脚からその死まで]

嘉永7年(1854年)、門弟の吉田松陰が再び来航したペリーの艦隊で密航
を企て失敗するという事件を起こした。松陰から相談をもちかけられた
象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、更にそ
の後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合
体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠
点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危
険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)
。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺さ
れる。享年54。

現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

[人物・逸話]

象山は自信過剰なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の多大な
業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのもその性格
に由来するところが大きいともいわれる。しかし当時の日本において象
山は紛れもない洋学の第一人者だった。

彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺を
やめてしまったという。更に彼の門弟には前述の松陰をはじめ、小林虎
三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬
、坂本龍馬などと、及び他にも多数の日本を担う人材を輩出し、幕末の
動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。

象山が横浜開港を徳川幕府に主張したことにより横浜港が開かれた。後
に幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され明治の世が到来するきっかけ
を残した人物である。その他、福沢諭吉が慶應義塾を創設するにあたっ
ても象山の功績の影響があった。その影響は今日の日本の姿にまで及ぶ
といって過言ではない。

勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となっ
たが、傲慢な象山を『氷川清話』の中では、あまり高く評価していない
。「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男
だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。

だが、象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し「この後、
吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。」と
その死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を「殿」「氏」と付けていた
のを、象山だけに「先生」と敬称をつけていた。また自らの号とした、
象山揮毫の「海舟書屋」の扁額を掲げ続けたことも事実で、勝の象山に
対する評価はひと通りではない。

自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子
供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大き
な尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。

しかし、象山の子で唯一成人した息子の啓之助は父親譲りの傲慢な性格
な上に素行が悪く、象山の仇討ちを目的に加入した筈の新選組では傍若
無人な振る舞いを繰り返した末に脱走し、その後、故郷の松代で取り巻
き達と共に新選組の名を騙って乱暴狼藉を働いた為に投獄され、見かね
た勝の紹介で慶應義塾に入塾するも女性問題をきっかけに退塾になった
り、維新後には裁判官に就くも泥酔して喧嘩沙汰を起こした為に地方に
左遷されるなど、大成するどころか行く先々で失態を繰り返しては伯父
である勝をはじめ西郷隆盛などの父・象山の好からなにかと後援してく
れた人々に度々迷惑をかけたという。

和歌や漢詩、書画に長じていた。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』に
よれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという。

嘉永4年(1851年)に松前藩からの依頼で鋳造した洋式大砲の演習を江戸
で行ったが、砲身が爆発して大砲は全壊してしまい、観衆から大笑いさ
れ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」
と責め立てられてしまう。

しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としており、更
には「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、
諸大名はもっと僕に金をかけて(大砲の)稽古をさせるべきだ」と豪語
して役人達を呆れさせたという。この事件を笑った落首に、「大玉池 砲
を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大
玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落であ
る。

[評価]

★勝海舟 <前掲>

★高杉晋作
「あれは一個の法螺吹きだ」

★石黒忠直
「先生は総髪にして、美しき鬚長く、色白くして、眼は四方白にて面長
なり。年五十二なれど、打見には四十七八と見ゆ。白の下着の上に、丸
に二ッ引の黒紋付の小袖を重ね、紫色の被布の如きものをその上に着し
、短刀をその傍らに置き、身辺、書籍短銃、もしくは文具等雑然たり」
<以下略>

        フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐久間象山の本
自己啓発書のベストセラー

         ☆—————————————-☆

★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

「Chinese New Year」

春節

はじめて、チャイニーズ・ニューイヤー・イブのディナーをいただくチ
ャンスに恵まれました。

うわ~~っ、ビックリ、テーブルの中央には丸焼き豚、アヒルが置いて
ありました。

たろ芋が入った魚のスープは大鍋でコトコト煮込まれていて大変美味し
くておかわりを!

牡蠣、貝柱、エビ、尾頭付き魚、ヌードル、筍、野菜がたくさん並んで
います。

日本のお節同様に食材にはそれぞれ意味や由来があるとのこと。
子供たちは赤い封筒に入ったお年玉をもらって大喜びをしていました。

                 Keiko

★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?「名言集」の宮口です。

中国発の新型コロナウィルスが猛威を振るっています。北海道にも上陸
したそうです。日頃の体力作りが一番の予防法です。手洗いやうがいな
ど日頃の習慣と小まめな水分補給も大切です。

私も颯太も風邪をひきません♪・・・?
颯太(ふうた)は、我が家の愛犬です♪

★皆さんのメールが何よりの励ましです。
出来る限り、お返事は差し上げますのでお気軽にメールして下さい。
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編集後記+++++++++++++++++++++++++++++

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うか?

仕事をしながらメルマガを発行しようと決意したのは、そういう名言の数々
を一人でも多くの方々に紹介したいと思ったからです。
今までの仕事だけの人生に物足りなさを感じていたということもあります。

「生きることとは自分自身を表現することである!」と言ったのは誰だった
ろう?自分自身を表現することにより、ほんの少しでも周りの人たちを幸せ
にするお手伝いが出来れば望外の幸せです。

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