人見絹枝 日本人の名言

いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける・・・ / 人見絹枝

投稿日:2019年7月19日 更新日:

2019.07.19-Vol.0900
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■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
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★今日の名言★
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 いくらでも罵れ。

  私はそれを甘んじて受ける。

 しかし、私の後から生まれてくる

  若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない。

              <人見絹枝>

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◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

オリンピック(Olympic)・・・

(1)古代ギリシア人がオリンピア祭に催した運動・詩・音楽などの競
   技大会。紀元前776年から紀元393年まで、4年ごとに開催。古代オ
   リンピック。
(2)国際オリンピック委員会(IOC)が4年ごとに開催する国際的スポ
   ーツ競技大会。第1回は1896年(アテネ)。1924年以降、別に冬季
   大会も行われる。国際オリンピック大会。近代オリンピック。オ
   リンピアード。五輪。

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※喫煙室(雑談コーナー)

「愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者になる。」<人見絹江>

今年の1月から放送されているNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピッ
ク噺~」。

私は時間の許す限り見るようにしているが・・・失礼ながらあまり評判は
良くないようである。

講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が、世界のスポーツの祭典である「
オリンピック」への選手派遣に向けて悪戦苦闘を重ねて選手を派遣するこ
とになる。

その第1号が「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(東京高等師範学校
)である。歌舞伎役者の中村勘九郎が好演している。

今日の名言の人見絹江は、1928年アムステルダムオリンピックに日本女子
選手として初出場し、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳
)にエントリーした超人的な女性である。

当オリンピックに於いて、日本女子選手として初出場し、女子800mで銀メ
ダルを取るなど素晴らしい結果を残した傑人である。

当時、女性は炊事や裁縫・子育てなどの教育がなされており、スポーツを
するなどということは批判や非難の対象となる時代背景があることを忘れ
るわけにはいかない。

後年、人見自身も「陸上を始めた頃は、周りから冷たい視線を浴びたもの
です」と語っている。

「日本女性は人前で太ももを晒すべきではない」、「日本女性の個性を破
壊するようなことをするな」、様々な非難の手紙が実家に送りつけられた
という。

先駆者のご苦労が偲ばれる今日の名言である。

         ☆—————————————-☆

人見絹枝

人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 – 1931年〈昭和
6年〉8月2日)は、岡山県御津郡(現:岡山市南区)出身の陸上競技選手
、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200
m(共に非公認)、走幅跳の元世界記録保持者。

[来歴]

1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区
福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイ
グサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家
族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子より
も男の子の方が多かった。

1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山
市立福浜小学校)に入学。小学生になっても「天下取りゲーム」でいつ
も一番で男児を悔しがらせたり、2階から飛び降りて下校するなど相変わ
らず活発な少女であった。

一方、学業成績も優秀で、特に国語が得意で、クラスでは級長を務めた
。6年生の時に担任の先生から短歌を習い、少女雑誌に匿名で投稿するな
ど、文学的才能を開花させた。

1919年(大正8年)に尋常科を卒業した後は高等科に進み、「女子が学問
をするなんて」と言われた時代に父・猪作は高等女学校への進学を勧め
、倍率3.93倍の岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)
の入学試験を突破した。

1920年(大正9年)4月、福浜小高等科1年を終え、憧れの岡山県立岡山高
等女学校(岡山高女)に入学。当時、大供にあった岡山高女まで毎日1里
半(≒5.9 km)の道を徒歩通学した。同年9月に就任した校長の和気昌郎
は全人教育を掲げ、「日本女性のたしなみ」として短歌を教える傍らで
、生徒をテニスやバレーボールの対外試合に出場させた。入学してすぐ
の県庭球大会で岡山高女が岡山県女子師範学校(岡山女師、現・岡山大
学教育学部)に負けたことに悔しさを覚え、高価なラケットを購入して
夜6時まで練習に励んだ。

当初家族は人見が日焼けで真っ黒になることに難色を示したが、1921年
(大正10年)5月の県庭球大会には父・猪作が応援に駆けつけている。こ
の大会で、人見・浮田ペアは前年岡山高女を破った岡山女師のペアに勝
利して優勝旗を持ち帰り、「関西第一の前衛」、「テニスの人見さん」
と讃えられた。1923年(大正12年)11月4日、大阪朝日新聞岡山通信部主
催の第2回岡山県女子体育大会(岡山女師)に脚気をおして岡山高女代表
として出場、走幅跳で4m67の当時日本最高記録(非公認)で優勝した。

1924年(大正13年)4月、二階堂体操塾に入学。塾長の二階堂トクヨから
体育の指導を受ける。10月の第3回岡山県女子体育大会(岡山女師)に出
場し三段跳で10m33の当時世界最高を記録する(現在非公認)。11月、全
日本選手権・陸上競技(明治神宮外苑競技場・以下神宮)に出場。三段
跳で10m38、やり投で26m37を記録した。

1925年同塾卒業後、京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)
の教員(体操教師)として赴任するが、二階堂からの要請で体操の実技
講師として台湾各地を巡回、同年に帰国した。二階堂体操塾の研修生と
なり、同校の専門学校認可を助ける(同校は翌年財団法人日本女子体育
専門学校となる)。10月、大阪体育協会主催第4回陸上競技選手権大会兼
明治神宮競技大会近畿予選(大阪市立運動場・以下大阪)に出場、50メ
ートル競走6秒8で優勝した。三段跳で11m62を出し世界最高記録(現在非
公認)を更新、11月の第2回明治神宮競技大会(神宮)に出場し、50mは
7秒0で優勝、三段跳びでも11m35で優勝する。

1926年4月、大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属。その年の東京・大阪
朝日新聞社主催四大陸上競技大会-第1回女子競技(神宮)に出場し50m
は7秒0で優勝、三段跳は10m76でも優勝した。5月、第2回関東陸上競技選
手権大会(神宮)に出場。100mは13秒6で優勝。

砲丸投(8ポンド)で9m97の日本新記録を出す。また、大阪毎日新聞社後
援第3回日本女子オリンピック大会(美吉野運動競技場・以下美吉野)に
非公式参加。走幅跳(5m6)、砲丸投(9m39)、野球投げ(野球のボール
の遠投)(25m)を記録。6月、東京日日新聞社主催第2回女子体育大会(
神宮)に出場。200mで27秒6の、走幅跳で5m75の日本新記録を出した。模
範競技として行われた400mRで寺尾正・文姉妹、松翁俊子を加えた当時最
高のメンバーで52秒2の日本新記録を出した。

8月、アリス・ミリア主催の第2回国際女子競技大会(ヨーテボリ)に日
本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝した。また
立ち幅跳びでも2m47で優勝している。円盤投では32m62で2位、100ヤード
走は12秒0で3位、60mで5位、250メートル走で6位(やり投と砲丸投は棄
権)。個人得点15点を挙げ国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与された
。なお、この遠征で初めて国外陸上競技の事情を知り、自分のトレーニ
ングに生かすだけではなく専属コーチや年間を通じてのトレーニングの
重要性などを著書を通じて広く後進に伝えた。

1927年4月、谷三三五にコーチを依頼し、5月、東京日日新聞社主催第3回
女子体育大会(神宮)に出場。200メートル走で26秒1、立ち幅跳びで2m
61の2つの世界最高を記録した(現在非公認)。走幅跳も5m54で優勝、大
阪健母会主催・大阪毎日新聞社後援第4回日本女子オリンピック大会(美
吉野)に出場。400mは61秒2で優勝したが、50mでは6秒8の同タイムなが
ら橋本靜子(日方高等女学校 現・和歌山県立海南高校)に敗れた。人見
にとっては国内の大会で初めての敗戦となった。

6月、大阪女子体育研究会主催大阪時事後援第7回大阪女子運動大会(大
阪)に出場。100mで12秒4の当時世界タイを記録する。8月、第14回全日
本陸上競技選手権大会(現・日本陸上競技選手権大会)(神宮)に出場
。50mは6秒7で、100mは12秒8で優勝した。10月、大阪体育協会主催第6回
陸上競技選手権大会兼明治神宮体育大会近畿予選(大阪)に出場。50mは
6秒5で、100mは12秒4の世界タイで優勝。11月の第4回明治神宮体育大会
(神宮)に出場、双生児の寺尾正・文姉妹(府立第一高等女学校(現・
東京都立白鴎高校))と接戦の末、50mは6秒4(当時世界タイ記録)で、
100mは12秒5で優勝する。

1928年5月、健母会主催第5回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出
場、400mで59秒00の世界最高記録(非公認)を出した。100メートル走は
12秒8で優勝。三種競技(194点)でも優勝し、そのうちの100mでは12秒
4の世界最高記録(非公認)を出した。ほかは走高跳(1m43)、やり投(
28m89)。第15回全日本陸上競技選手権大会(大阪)に出場。100mで12秒
2を出し、走幅跳では5m98を跳び2つの世界記録を更新。

6月、第4回インタークラブ選手権(ロンドン)に出場、走幅跳では5m59
でイギリスのガンを破り優勝した。しかし、100ヤード走ハンディキャッ
プレースでは予選落ちとなった。7月、A.A.A.女子選手権大会(ロンドン
)に出場、220ヤード走は26秒2で(予選の25秒8は当時世界タイ記録)、
やり投は35m96で優勝したものの、100ヤード走、走り幅跳びではガンの
前に敗れた。

1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、女
子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーした(
走幅跳は採用されず、事実上100m一本に絞っていた)。7月30日、100m予
選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃
した。

8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6
でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピック
メダリスト(銀メダル)となった。8月5日、走高跳の予選に出場するも
1m40で予選落ちとなった。

8月、インターナショナル競技会(ベルリン)に出場、走幅跳は5m51で優
勝。やり投は36m58で2位、100mは予選落ちしたが、最後の800mは2分23秒
9で優勝した。

10月、大阪体育協会主催第7回陸上競技選手権大会(大阪)に出場、100m
で橋本靜子に2度目の敗戦を喫した(記録計時なし)。橋本の記録は13秒
2だった。400mRでは所属チームW.S.C.が53秒2で優勝している。

この後、一旦競技から離れるが翌春練習を再開。競技者として各地に遠
征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面に忙殺され
てゆくことになった。

1929年4月、第6回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場する。三
種競技(217点)で世界最高を記録(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投
:32m13)、200mは26秒8で優勝する。80mHの13秒6は番外ながら日本新記
録を更新した。

5月、東京日日新聞社主催第5回女子体育大会(神宮)に出場し200mで24
秒7の世界記録を出した。走幅跳は5m92で優勝、円盤投は34m18の日本新
記録で優勝した。8月、国際女子オリンピック出場候補15名と2週間の合
宿を行い、10月の日独対抗大阪大会(甲子園競技場)にも出場し100mで
12秒4を記録した。朝鮮・日・独対抗競技(京城府)に出場、100mで12秒
0、200mで24秒4、走幅跳で6m075を出した(100mと走幅跳は追い風5.8メ
ートルのため非公認の世界記録)。

中国・日本・独三国大会(奉天=瀋陽)にオープン参加し100mで12秒0、
60mで7秒5を出している。11月、第16回全日本陸上競技選手権大会兼第5
回明治神宮体育大会(神宮)に出場しており200mは25秒4で優勝、走幅跳
は5m91で優勝、400mRでもL.A.C.チームの一員として51秒6の日本新記録
で優勝した。

1930年2月、日本女子スポーツ連盟臨時総会で、国際女子オリンピック大
会の遠征費捻出のため全国の女学校に応援袋を置き寄付を募ることを提
案し、遠征費は出発の3日前に目標額に達した。

5月、第7回日本女子オリンピック大会(美吉野)で三種競技に出場(20
1点466で優勝。100m:13秒0、走高跳:1m40、やり投:35m27)、国際女子オ
リンピック大会の代表6名が決定した。谷三三五の下、1ヶ月余合宿を行
う。

7月、日本女子スポーツ連盟・健母会主催渡欧女子選手送別競技会(大阪
)で渡欧選手・女学校選手対抗リレーに出場、渡欧女子選手送別競技会
(名古屋・椙山高女)に出場する。走幅跳で5m90を記録し、やり投では
37m84の非公認日本新記録を更新した。

9月6日、第3回国際女子競技大会(プラハ)に5人の選手を率いて出場(
9月8日まで)、走幅跳では5m90で優勝した。三種競技は192点(100m:13
秒2、走高跳:1m40、やり投:34m46)で2位、やり投(600g)は3位(37m1
)、60mは3位(7秒8)、400mRは4位(52秒0)、100mは準決勝敗退、200
mは決勝を棄権した。個人得点13点で2位となり、リレーの1点を加えた日
本チームは参加18ヶ国中4位となった。

9月7日、8日は雨でその後体調を崩した。9月11日、日本・ポーランド女
子対抗競技会(ワルシャワ)に出場する。60m(7秒8)、100m(12秒6)
、走高跳(1m40)、走幅跳(5m39)、円盤投(32m19)、やり投(36m55
)に出場し日本チームは35点対54点でポーランドに敗れた。

9月13日、日・英・独女子競技大会(ベルリン)に出場、100mは12秒4、
走幅跳は5m56で優勝した。200mは28秒2で2位、やり投33m90で3位。9月1
4日はスイス観光し9月16日、パリで休養する。

9月20日、日本対ベルギー対抗競技(ブリュッセル)に出場、100m(13秒
4)、400mR(53秒4)、円盤投(29m13)、やり投(37m25)は優勝。800
mでは2位になる。日本チームは52点対47点でベルギーに勝利した。同日
深夜パリに戻るが高熱を出し、9月21日、日本対フランス女子対抗競技(
パリ)に出場。走幅跳(5m61)、円盤投(31m19)、やり投(37m44)で
優勝する。80m、200m、400mR、走高跳では2位になったが日本チームは3
8点対46点でフランスに敗れた。ロンドンから海路にて11月6日帰国した。

国際女子オリンピック大会は好成績ではあったが、チームとしても前回
大会やオリンピックに比して結果が悪かった。帰途、新聞報道や手紙か
ら日本での反応が冷たいことを知った選手達は深く傷ついた。しかも半
月の内に5つの大会が集中し、肉体的にも大きな負担となった。帰国当日
岡山の実家で休んだものの、翌日東京に発つ。後に扁桃腺炎になるが、
正月までほとんど休みなく新聞社での仕事や募金へのお礼を行った。

1931年(昭和6年)3月6日に病臥に伏し、大阪・十三から尼崎市塚口へ引
っ越した。3月25日に早朝から喀血し、肋膜炎で大阪帝国大学付属病院(
現・大阪大学医学部附属病院)小沢内科に入院する。担当医は岡山出身
で、妻は岡山高女の出身であったことから手厚い医療を受けることがで
きた。人見の病室には「軽井直子」という名札が掛けられた。

5月31日に見舞いに訪れた二階堂トクヨは一目見て大病であることを見抜
き、涙を流し、看護人・藤村蝶に50円を手渡した。その後に世間の煩わ
しさから避けるため、別館2階へ病室を移された。7月中旬には肺炎を併
発し、見舞いに訪れた織田幹雄は変わり果てた姿に絶句したという。7月
29日、病室を本館に移し、入院してから初めて「苦しい」、「家に帰り
たい」と弱音を吐いた。

8月1日18時過ぎに病状が急変し、8月2日午後0時25分、乾酪性肺炎により
死去した。24歳没。辞世の詩は、「息も脈も高し されど わが治療の意
気さらに高し」。アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょ
うど3年後の日であった。

危篤の報を聞き駆けつけた両親は娘の死に目に間に合わず、大阪に向か
う途中の姫路駅のラジオ放送で死を知った。師・二階堂トクヨは「スポ
ーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」とい
う言葉を『婦人公論』に寄せている。

8月3日、遺体は阿倍野斎場(大阪市営南斎場)にて火葬され、8月5日に
大阪毎日新聞社による、神式の告別式が行われた。式には1,000人超の参
列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟のアリス・ミリアをはじめ世界中か
ら弔電が寄せられた。8月12日には人見家の菩提寺である妙法寺で仏式の
葬儀が営まれ千数百人が参列した。法号は「妙法 高徳院妙聲日宏大姉」
。付きっきりの看病をしていた藤村家の墓所(青森県八戸市の本覚寺)
に骨塔がある。<以下略>

        フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

人見絹枝の本
自己啓発書のベストセラー

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今までの仕事だけの人生に物足りなさを感じていたということもあります。

「生きることとは自分自身を表現することである!」と言ったのは誰だった
ろう?自分自身を表現することにより、ほんの少しでも周りの人たちを幸せ
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