先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」

驚くほど役に立つ「名言集」では、世界の名言・金言・格言・故事・ことわざをご紹介します。

勝って、勝ちに傲(おご)ることなく・・・ / 嘉納治五郎

      2015/08/14

2013.10.04-Vol.0595
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■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
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★今日の名言★
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 勝って、勝ちに傲(おご)ることなく、

  負けて、負けに屈することなく、

   安きにありて、油断することなく、

    危うきにありて、恐れることもなく、

  ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ。

              <嘉納治五郎>

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◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

驕り・傲り・奢り(おごり)・・・

(1)得意になってたかぶること。思い上がり。
(2)≪奢≫ぜいたくをすること。奢侈(しゃし)。
(3)≪奢≫人にごちそうすること。ふるまい。

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※喫煙室(雑談コーナー)

私が高校を卒業して間もなくの頃、柔道の恩師S先生から勧められて
町道場に通うようになったのはもう40年も前のことである。

小学生や中学生を教えるようになり、お陰さまで講道館から柔道5段
の段位を授与されるまでになった。

残念ながら、腰を痛めてから柔道は出来なくなったが、今でも思い出
すのはS先生が口癖のようによく言われていた嘉納治五郎の言葉であ
る。

「精力善用」「自他共栄」と言う言葉である。

この後に、「文武不岐(ぶんぶふき)」と言う言葉が続くらしいが、
いずれにしても学問と武術の一体化を目指した嘉納師範の高い志をよ
く表した言葉であると思うのだ。

「精力善用」と「自他共栄」は、共に嘉納治五郎が創始した講道館柔
道の指針として掲げられている言葉だが、修練により培った力や能力
(心身の力を有効に利用する道)を世の中や人の役に立つ為に使いな
さいという教えである。

「柔道とは、心身の力を、最も有効に使用する道である。
 その修行は、攻撃防御の練習により、精神身体を鍛錬し、
 その道の真髄を、体得する事である。そして、是によって、
 己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である。」

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嘉納治五郎

嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月9日(万延元年10月28日)
– 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵
庫県平民。
講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本の
オリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於
けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体
育の父」とも呼ばれる。

[生い立ち]

1860年12月9日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸
市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として
生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船に
て甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・
治朗作である。初め治作は治朗作に家を継がせようとしていたが治朗
作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府
の廻船方御用達を務め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟のパトロン
ともなった。柳宗悦の義母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家
ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別
される。
1873年(明治6年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京に
て書道・英語などを学んだ。

[柔道創始]

1874年(明治7年)、育英義塾に入塾。その後、官立東京開成学校(
のちの東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した
。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者
に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるとい
う柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。
当時は文明開化の時であり柔術は全く省みられなくなり、師匠を探す
のにも苦労し柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、天神
真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話と
して、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げ
るのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようにな
る』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話
である。
1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月
3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔
術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元であ
る磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の
死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の技術を取
捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に
ある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位
制を取り入れ講道館を設立した。
1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術
や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように
理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵
、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「
古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有
利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く
)の植芝盛平[2]や神道夢想流杖術の清水隆次、香取神道流の椎名市
蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』によ
るとこの薙刀術が1941年(昭和16年) – 1942年(昭和17年)頃の国
民学校の標準となったと記されているが国民学校令施行より以前に既
に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記
述の正確性には疑問が残る)。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される。

[教育者として]

嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教
頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(東京
教育大学を経た現在の筑波大学なお、筑波大学キャンパス内にも立像
が建っている。)校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑
波大学附属中学校・高等学校)校長を務めたほか、旧制第五高等中学
校(現・熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフ
カディオ・ハーン)等がいた)、さらには、嘉納自身が柔道の精神と
して唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現
・灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力す
る。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。
また中国人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長・松本
亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、
治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中華
人民共和国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり
挙げられた。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術
師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)
で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学
館講義録』を共著で執筆。1888年(明治21年)、全国の旧制中学で柔
道が採用される。

[スポーツ]

日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には日本人初のIOC
(国際オリンピック委員会)委員となる。
1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立し
てその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストック
ホルムオリンピック於いては団長として参加した。
1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリン
ピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。

[死去]

1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途
上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(
遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等
旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。

        フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

嘉納治五郎の本

自己啓発書のベストセラー

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★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

NewYorkから250kmほど北上したAlbany にEast Chathamというところが
あります。
そこには天台宗ニューヨーク別院の天台寺というお寺があるそうです。
夏休みを利用して神戸大学の2年生が勉強のため1ヶ月滞在しました。
仏教活動、経典勉強会をはじめ、お彼岸の期間中リトリートのような
ことも行われたようです。
マンハッタンから電車で2時間余りの場所なのに早朝は0度近くになる
こともあり寒かったとのこと。
お寺での食事はお精進料理ではなく朝は5時半起床でコーヒーで始まる
アメリカンスタイル。
何故ならご住職はPaulさんというアメリカ人、すべて英語圏の世界で
す。
大学生が3日間ニューヨークに出てきたので、観光、ショッピング、食
事など行動を共にしました。はやり若者でも日本の食事が恋しいらし
く、ラーメン、餃子、お寿司で和やかに、そして帰国前日はフランス
料理でさようならをして、無事帰国。
Brooklyn,Queens Express-wayから眺めたマンハッタン島を撮影した彼
は「メチャメチャ綺麗ですね」を連発、彼は20歳の好青年でした。

Keiko

★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?

北海道の滝川市のホテル8階から街を見下ろしながら書いています。
雲の合間から朝日の差す周りの山並みが綺麗です。

今日で三日目ですが、かなり疲れが溜まってきました。
月末には富良野への出張が残っています。

さあ、これからシャワーを浴びて仕事です!

源太は我が家の愛犬です。

 - 嘉納治五郎, 日本人の名言

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