山田寅次郎 日本人の名言

東洋の君子国としての誇りを持ち・・・ / 山田寅次郎

投稿日:2018年12月14日 更新日:

2018.12.14-Vol.0868
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■先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」■
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★今日の名言★
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 東洋の君子国としての誇りを持ち、

  諸外国に侮りを受けることのないように、

   張り切ってきました。

              <山田寅次郎>

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◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

トルコ(Turco(ポルトガル)・土耳古)・・・

小アジア半島と、バルカン半島の南東端とにまたがる共和国。オスマン
帝国の中心として栄えたが、第一次大戦に敗北後、ケマル=パシャの指
導する民族運動が興って帝政を廃止し、イギリス・ギリシア・フランス
などの侵入軍を撃破、1923年共和制を宣言し、ローザンヌ条約で現国土
を確保。国民はイスラム教を信奉。面積77万5000平方キロメートル、人
口7115万(2004)首都アンカラ。

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※喫煙室(雑談コーナー)

私が幼い頃、そう、プロレス全盛の時代で父の経営する時計店の路面に
面して、当時珍しかった白黒テレビでプロレスを見ようと人だかりがで
きていたことを思い出す。店外の台の上にテレビを置いていたのだ。

トルコ人の両親を持つユセフ・トルコ、もう記憶も薄れてしまったが格
闘家としての現役を退いてレフェリーとして力道山やジャイアント馬場
やアントニオ猪木の試合を裁いていた名レフェリーであった。

2013年10月に83歳で天寿を全うされたが、当時からトルコは親日家が多
いということで日本人に知られていたのだが、なぜ親日家が多いのか少
し調べてみた。

日本とトルコをつなぐ架け橋となった大きな出来事の発端が「エルトゥ
ールル号の遭難」である。

以下、「特定非営利法人 国際留学生協会」のホームページから抜粋。
非常に興味深い記事なので、是非お読み頂きたい。

山田 寅次郎(やまだ とらじろう)

「日本・トルコの架け橋」

「エルトゥールル号の遭難」

 トルコは親日的だと言われている。山田寅次郎の存在がそれに一役か
ったことは、間違いない。彼は明治時代、20年以上にわたってトルコに
住み続けた稀有な日本人であった。日本とトルコが身近な国になるよう
尽力した。まさに国際交流の先駆けであり、日本とトルコの架け橋であ
った。

「大島村民の無償の行為」

 トルコで最も有名な日本人、それは山田寅次郎である。イスタンブー
ルには、山田寅次郎広場があるほどである。彼は約20年間トルコに滞在
し、民間大使としての役割を果たした人物であった。彼がトルコと関わ
りを持ち始めたきっかけは、トルコの軍艦エルトゥールル号の遭難であ
った。

 時は1890年9月16日午後9時過ぎ、エルトゥールル号は暴風雨の中、紀
伊半島南端近くの大島の沖合で岩礁に激突。大爆音とともに船体が中央
から真っ二つに割れ、荒れ狂う海の中に消えた。乗組員650名は全員、海
に投げ出され、587名が死亡。生存者は63名に過ぎなかった。

 エルトゥールル号の訪日の目的は、小松宮彰仁親王(皇族)のトルコ
訪問に対する答礼であった。明治天皇に謁見する任務を果たし終え、そ
の帰途、事故に遭ったのである。実は、帰国予定は大幅に遅れていた。
乗組員の一部が横浜でコレラに感染してしまったからだ。帰還費用も乏
しかった。それゆえ台風シーズンという危険を覚悟で出発を強行せざる
を得なかったのである。そこに台風が襲いかかり、未曾有の悲劇となっ
てしまった。

 大島村民の行動は速かった。翌日早朝、荒波の中に漂う船の破片、お
びただしい数の死体、灯台に泳ぎ着いた負傷者の群れ。並の海難事故で
はなかった。村長、区長の指導のもと、村をあげて生存者の救出活動を
開始した。

 救出と言っても簡単なことではない。樫野地域の海岸は崖であり、遭
難者を戸板に括り付けて、崖の上まで運び上げなければならなかった。
それも雨の中での作業である。村人らは、負傷者を寺の本堂に運び入れ
、血や汚れを拭い、水をほしがる者には水を与え、衰弱したトルコ兵士
を励まし続けた。村人総出で、骨身を惜しまず介抱したのである。

 村民は、貧しい生活にもかかわらず、遭難者が村を離れるまでの期間
、食料を賄うなど生活全般の面倒を見た。とりわけその年は、食糧事情
が悪化していた。不漁と穀物の不作が重なったためである。しかし村人
らは、非常の時のために床下に蓄えていたサツマイモや鶏を生存者のた
めに惜しみなく提供した。また遺体は、遭難場所にほど近い南側の山野
に丁寧に葬られた。さらに驚いたことに、生存者の治療に当たった医師
たちは、薬代を含め一切の治療費を寄付すると申し出た。まさに村民あ
げての無償の行為であった。

「義捐金活動」

 その後、生存者は神戸港にあった和田岬消毒所に収容され、日本赤十
字社の看護婦らの手に委ねられた。ここでも生存者たちは、看護婦の献
身的な介抱に感動し、涙を流して喜んだ。また日本中から、彼らに見舞
いの品が届いた。多かったのが煙草だったという。彼らの煙草好きが新
聞で報道されたからである。また皇后からは、フランネルの病床衣類が
一人に一着ずつ贈られた。こうした皇后の厚意に、涙を流さない者は一
人もいなかった。彼らは、汚さないよう注意深く着ていたという。

 連日新聞紙上に詳しく報道されたこの事件に、24歳の山田寅次郎は衝
撃を受けた。トルコからはるばる東の果ての日本までやってきて、コレ
ラに見舞われ、あげくの果てに遭難。痛ましすぎる。寅次郎は多感な青
年だった。彼は各方面に働きかけて、遺族への義捐金集めの活動を開始
した。新聞社などに働きかけ、その協力のもと、演説会を催し、1年後に
は、なんと5千円の義援金を集めてしまった。現在のお金で3千万円ほど
になる。

「トルコへ」

 トルコへどのように送金すべきか。考えあぐねた末、寅次郎は外務大
臣に聞くのが一番だと考え、外務省を訪問した。思い込んだら一途に行
動し、恐れを知らぬ寅次郎である。時の外相、青木周蔵を訪ねたところ
、青木は熟考の末、「君自身がトルコに赴いてはどうか」と持ちかけた
。渡航の便宜は図ってくれるという。願ってもないことだった。

 1866年、寅次郎は沼田藩(現在の群馬県沼田市)の藩士中村完爾と島
子の次男として生まれた。山田姓を名乗ったのは、後に茶道・宗偏流の
第7世山田宗寿の養子になったからである。明治維新後、中村家一家は上
京し、寅次郎は漢学、英語、ドイツ語、フランス語などを学んだ。海外
で一仕事したい。そんな気持ちを抱きながら、外国語習得に取り組んで
いたのである。日本という枠にとらわれず、国際社会の場で自分の生き
る道を見出したい。そんな熱い思いを抱いていたときに起こったのが、
まさにエルトゥールル号遭難事件であったのである。彼は青木外相の勧
めに飛びついた。

 単に義捐金を届けるためだけでトルコに赴くつもりはなかった。西欧
列強がアジアの植民地化を進めている時代に、辛くも独立の体面を保っ
ているのは、日本とトルコである。この両国が交流を深めることで、西
欧の侵略からアジアを守り、侵略の防波堤としたい。こんな思いを抱い
ていた。彼は熱烈な愛国者でもあったのである。

「トルコに留まる」

 1892年1月30日、26歳の寅次郎は勇躍、横浜港を出発した。目的地コン
スタンチノープルに着いたのは4月4日早朝。早速、外務省を訪れ、サイ
ド・パシャ外相に面会。外相は、遺族救済委員会に義捐金を送付する手
続きを取ってくれた。これで寅次郎の第一の目的は完遂した。数日後、
皇帝アブデュルハミト2世に拝謁。皇帝から、「トルコは日本との修好お
よび通商を希望している。それには、言葉の理解が必要となる。しばら
く滞在して、陸海軍の士官に日本語を教えてほしい」との言葉があった
。この申し出は、願ってもないことだった。日土交流の道を切り開きた
い。これは彼の第二の目的だった。彼は何の迷いもなく、トルコに留ま
る決意をしたのである。

 トルコは自国の商工業を発展させるため、欧州から物資を購入せざる
を得なかった。しかし、そのことは、宗教的な敵であるキリスト教国に
、トルコの金が吸い取られてしまうことを意味した。エルトゥールル号
遭難事件以後、皇帝は日本を尊敬し、日本と親密になりたいという気持
ちが強くなっていた。そこにトルコとの交流の先鞭を付けたいと考えて
いた寅次郎が乗り込んだのである。両者の思惑は完全に一致した。

「民間大使として」

 第一次世界大戦が勃発し、トルコと日本が準交戦国となったため、寅
次郎は帰国を余儀なくされた。それまでの22年間(帰国時を除くと正味
20年間)、民間大使として目覚ましい活躍をみせた。日土両国の正式な
外交関係の樹立に奔走したことは、彼の最大の功績と称えられている。

 トルコ商工務省直轄のトルコ商品陳列館における日本代理人を委嘱さ
れ、日本製品の普及にも貢献した。また、コンスタンチノープルの目抜
き通りに日本品販売所を設け、それを管理した。この販売所は、トルコ
から土地家屋を与えられ、関税面でもかなりの優遇措置を受けていた。
皇帝が日本との交易を強く望んでいたからである。また皇帝とその側近
の高官たちに茶の湯を披露し、日本文化の伝播にも余念がなかった。ち
なみにこの時の茶の湯の点前は、茶道が海外に紹介された最初と言われ
ている。皇帝は、寅次郎の一連の活動に感謝して、アブデュルハリルと
いうムスリム名を授けている。

 帰国後の寅次郎は、大阪に製紙会社(吹田製紙所、後に三島製紙所)
を立ち上げた。その役員として事業展開をしながら、日土交流に尽力し
続けた。1925年、大阪商業会議所が中心となって、日土貿易協会が設立
され、寅次郎は初代理事長に就任。その翌年、高松宮(皇室)を総裁に
戴き、日土協会を創設。1928年には、日土貿易協会主催で、エルトゥー
ルル号の遭難で命を落とした犠牲者の追悼祭が、大島の樫野崎で行われ
た。まさに寅次郎は日土関係の架け橋として活躍したのである。

「親日的なトルコ」

 トルコ人はみな親日的だと言われている。日露戦争(1905年)に日本
が勝利したとき、皇帝は「我が国の勝利と考えるべきである」と語り、
我が事のように喜んだ。この時期にトルコで生まれた赤ん坊に、日露戦
争の英雄東郷平八郎や乃木希典にちなんで、トーゴーやノギと命名する
のが流行したほど、トルコ人は日本の勝利に熱狂したという。

 もちろん、ロシアは日本とトルコの共通の敵であったからであろうが
、エルトゥールル号遭難時の大島村民の救護活動や寅次郎の存在も、影
響していたことは間違いない。大島村では、エルトゥールル号遭難事件
以来、5年ごとに慰霊祭を行ってきたし、地元の小学生は犠牲者の墓地の
清掃作業を続けていた。実は、この清掃は今でも続けられており、毎年
11月には全校生徒総出で墓前に詣で、追悼歌を斉唱し、それから清掃作
業に入るという。トルコ人の間では、これらのことはよく知られている
のである。

 1985年、イランとイラクの戦争が泥沼化する中、イラクのフセイン大
統領は、とんでもない声明を発表した。48時間後にイラン上空を飛ぶ全
ての飛行機(民間機を含む)を無差別に攻撃するという。イランの日本
大使館は狼狽した。日本人に出国勧告を出していたが、日本航空の救援
機は間に合わない。各国の航空会社に掛け合ったが、どこも自国民の脱
出で手一杯で、どうにもならない。必死で掛け合っても、200人分の座席
がどうしても足りない。もはや事態は絶望的だった。

 そんな時、日本人のために救援機を出してくれたのが、トルコ航空だ
った。オザル首相(後の大統領)が特別機を飛ばす決断をしたのである
。トルコ航空では、この特別機に乗るパイロットを募集したところ、全
員が手を挙げたという。2機のトルコ航空の飛行機が日本人を乗せてテヘ
ランの空港を飛び立ったのは、撃墜予告期限の1時間前のことであった。
危機一髪で脱出に成功した。トルコによって助けられたのである。

 1957年、山田寅次郎は90年間の生涯を大阪で終えた。晩年彼は語って
いる。「東洋の君子国としての誇りを持ち、諸外国に侮りを受けること
のないように、張り切ってきました」と。まさに大島村民と共に、寅次
郎はトルコの人々に「尊敬される日本人」像を強く印象づけ、私たち日
本人の誇りとなっている。

http://www.ifsa.jp/index.php?Gyamadatorajirou

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山田宗有

山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年(1866年)8
月23日 – 昭和32年(1957年)2月13日)は、実業家、茶人。茶道宗偏流
の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう
)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号
遭難事件の義捐金を届けにトルコに渡って以来、日本とトルコの交流に
深く関わった人物としても知られる。

[生い立ち]

宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛
門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。中村家は曽祖
父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、維新後に上京し
た。明治14年(1881年)に宗偏流家元山田家に養子入りした。宗偏流は
、寅次郎が生まれるより以前に6世家元の山田宗学が死去し、その妻が7
世を継いで山田宗寿と称していたが、宗学夫妻の間には後を継ぐ子がい
なかったため、後継ぎとして寅次郎が迎え入れられたのである。慶應義
塾に学ぶ。

しかし彼は茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったらしく、明治16
年(1883年)に家元宗寿が亡くなった後も家元を襲名せず、進んで言論
界に入って陸羯南、福地源一郎らと交わった。茶道は高弟の中村宗知に
任せていた。

東京で書生として暮らしながら政治活動・出版事業に手を広げ、幸田露
伴の処女作を出版社の金港堂に売り込んだこともあった(後に露伴は、
友人だった寅次郎をモデルにして、軍艦沈没事件を抜け目なく利用して
名を売り、金を集め、日本との貿易事業を画策して海外へ渡った男の話
を短編「書生商人」(明治25~26年)としてまとめている)。

[トルコとの関わり]

明治23年(1890年)、訪日から帰国途上のオスマン帝国軍艦エルトゥー
ルル号の遭難事件が日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎は民間から義
捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立った。彼は親交のあ
った日本新聞社の陸羯南に働きかけて募金運動を起こした。日本中で演
説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされ
る)の寄付を集めた。当初はトルコへ送金するつもりであったが、その
方法について外務大臣の青木周蔵と面談したところ、持参を勧められた
という。

明治25年(1892年)4月、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都イ
スタンブールに到着し、早速オスマン帝国外相を訪ねて義捐金を届けた
。これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金を持って自ら
やって来たことが知れわたると、彼はイスタンブールの官民から熱烈な
歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。
この時に彼が皇帝に献上した生家の中村家伝来の甲冑や大刀は、現在も
トプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。

1894年(明治27年)6月30日付けで寅次郎が第百銀行の池田健三に宛てた
書簡によると、滞在したのは1892年(明治25年)4月から数か月間で、そ
の際オスマン商工会議所内に自ら持参した日本商品を商売の見本として
陳列し、日本品販売所を開設できるよう準備をして帰国。再来訪した18
93年から1894年にかけて販売所を開き、その後、大阪の中村健次郎(商
人・中村久兵衛弟)の出資を得て「中村商店」として開店したと推測さ
れる。

寅次郎はアブデュルハミト2世から士官学校での日本語の教育や、東洋の
美術品の整理を依頼され、イスタンブールにしばらく滞在していた。そ
のうちにトルコに愛着を覚え、イスタンブールに留まって事業を起こす
ことを決意した、と自伝では述べている。

明治29年(1896年)、一時帰国を経て再びイスタンブールにやって来た
寅次郎は、イスタンブールの「中村商店」の現地支配人となり、日本と
の間での貿易事業を始め、以後、日本とトルコの間を何度か行き来しな
がら、イスタンブールに滞在した。この頃の中村商店の実態、寅次郎の
活動については不明な点が極めて多い。寅次郎はイスタンブールに継続
的に留まることはなく、周辺諸国の探訪や日本への一時帰還など活発に
活動していたことが確認されているが、その詳細は必ずしも詳らかでは
ない。

1899年に一時帰国した時に大阪中村商店の経営者である中村久兵衛の娘
・中村たみと結婚し、中村一族と血縁となる。子供も儲けたが、妻子は
大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかった。

寅次郎がイスタンブールに滞在していた当時、日本とオスマン帝国の間
では治外法権の問題から国交交渉が進展せず、正式の国交が持たれなか
った。こうした事情もあり、彼はこの町でほとんど唯一人の日本人長期
滞在者であった。そこで、イスタンブールを訪問する日本人たちは官民
、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜を図っ
てもらっていたという。寅次郎の接遇を受けた人物に、徳富蘇峰、深井
英五、田健治郎、松永武吉、朝比奈知泉、望月小太郎、池辺吉太郎、徳
川頼倫、鎌田栄吉、寺内正毅、橋本圭三郎、中村直吉、伊東忠太などが
いる。

彼のイスタンブール滞在中に日露戦争が起こった。「ロシア黒海艦隊所
属の艦艇3隻が商船に偽装してボスポラス海峡を通過した」との情報が、
イスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、重要情
報として高い評価を受けたことが知られている。寅次郎が晩年語ったと
ころによれば、この監視と打電を行ったのは寅次郎自身であったという
。ただし近年の研究により、寅次郎や中村商店の情報収集は不充分で、
戦況を左右するものではなかったことが明らかとなっている。

このように彼はイスタンブールにおいて日土両国の政府関係者と繋がり
を持ち、トルコにおける日本の便益を図った。この時期の寅次郎はいわ
ば日本の「民間大使」であったと言われることもある。

トルコ滞在中の寅次郎は、アブデュルハミト2世からトルコ人たちの呼び
やすいムスリム(イスラム教徒)名をつけられ、トルコ人の友人たちか
らはムスリム名「アブデュルハリル山田パシャ」と呼ばれていた(「パ
シャ」はオスマン帝国で高官、高級軍人に与えられる称号である)。彼
が正式にイスラム教に改宗する手続きを行ったかどうかは定かではない
が、のちに寅次郎は「当時は心情的にはイスラム教徒に近かった」と語
っており、そうしたことから彼は日本人ムスリムの草分けの一人に数え
られることもある。

大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツら同盟国側に引
き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫したため、寅次郎
はイスタンブールを最終的に退去、帰国した。しかし、イスタンブール
を訪れた日本人が残した様々な記録を照査した近年の研究によると、寅
次郎がイスタンブールを離れたのは1906年頃とされる。

宗有の孫娘である和多利月子の調査によると、第一次世界大戦前、寅次
郎は皇帝のために日本から工芸品や大工道具などを取り寄せたり、生き
た鳥とその世話をする鳥飼の渡航を手配したりしており、オスマン帝国
内を自由に行き来できる証明書を与えられていた。またトルコで世話し
た日本人のうち、伊東忠太とは特にこまめに葉書で近況を知らせ合って
いた。日本へ戻り、大阪に居を定めたのは1905年であるという。

[実業家としての活動]

トルコの地で商売を始めた寅次郎は、これを手がかりに日本の実業界に
進出しようと考えたが、彼が当初手がけた日土間の貿易事業は、両国の
間で交流がほとんど行われていなかったため、将来的な発展性に乏しか
った。

そこで寅次郎は当時、輸出のためオスマン帝国の領内で盛んに製造され
るようになっていたタバコに目をつけた。これは1900年(明治33年)に
大蔵省の橋本圭三郎と農学博士の佐々木善次郎が煙草調査のためにイス
タンブールを訪問した際に寅次郎が接遇したことがきっかけだった。

明治37年(1904年)、日露戦争の戦費捻出のため日本の大蔵省がタバコ
の専売制を強化し、材料の買い上げから製造、販売まで一括して独占的
に行うようになったのを機に、トルコのタバコ工場から日本に技術を導
入して、紙巻きタバコを巻くのに使うライスペーパー(シガレットペー
パー)の製造を国産化し、大蔵省に納入することを計画した。

明治38年(1905年)、実業家の井上保次郎や中村商店の中村久兵衛らが
大阪で東洋製紙株式会社(後に王子製紙と合併)を発起し、寅次郎も監
査役として加わり、日本最初のライスペーパー製造を開始した。同社の
事業は軌道に乗り、一時的には大蔵省専売局で使うライスペーパーを独
占的に生産する成功を収めた。ただし、寅次郎自身は明治42年(1905年
)に監査役を辞任し、東洋製紙の経営からは離れている(1920年に再び
取締役に就任)。

第一次世界大戦の勃発に前後して帰国してからの寅次郎は製紙業に専念
し、長く関西実業界で活躍した。

[家元襲名後]

寅次郎が日本国外や実業界で活躍する間、家業の宗偏流は、40年近くに
わたって家元不在のままであった。大正12年(1923年)、57歳の寅次郎
は弟子たちの懇請によって家元を襲名し、宗偏流第8世山田宗有となる。

家元として宗有は、流派の組織化を進め、機関誌『知音』を創刊するな
ど、宗偏流の振興に尽力した。 また宗偏流が、赤穂浪士の吉良邸討ち入
りに間接的にかかわった(流祖山田宗偏と吉良義央とは同門、小林平八郎
、大高源吾らが門人であった)忠臣蔵ゆかりの流派であることにちなんで
東京の墨田区で義士茶会を始めるなど、全国で茶道を広める活動を盛ん
に行っている。

一方で、家元襲名後も寅次郎は実業界からは手を引かず、昭和2年(192
7年)には吹田製紙(現・三島製紙吹田工場)を創業した。同社は昭和1
1年(1936年)に三島製紙と合併するが、その後も経営に関わり、三島製
紙の社長、会長を歴任している。

また、トルコとの親善交易にも関心に持ちつづけた。日本とトルコ共和
国が国交を結んで東京にトルコ大使館が開かれると大使と大阪の財界と
の間を取り持ち、大正14年(1925年)に大阪財界主導で日土貿易協会を
設立、その理事長に就任して日本とトルコの間の貿易を行った。第一次
世界大戦後に誕生した新生トルコ共和国は、国内産業保護のために諸外
国との貿易事業を厳しく制限し、イスタンブールにあった日本商品館も
閉鎖された。日土貿易協会は貿易対象国をトルコ周辺のバルカン半島諸
国やアラブ諸国などにまで広げ、1937年(昭和12年)には名称を「近東
貿易協会」と改めた。

昭和6年(1931年)にはトルコを再訪し、イスタンブールに滞在して現地
の財界から大歓迎を受けた。また、ムスタファ・ケマル大統領に首都ア
ンカラに招かれて面会したが、ケマルは士官学校で寅次郎が日本語を教
えていた時、自分もその中の一人として日本語を教わった思い出を語り
、大変な友誼を示したという。

トルコ訪問に合わせ、貿易の活路を求めてギリシャの商品見本市にも参
加し、昭和8年(1933年)には、ギリシャの大阪駐在名誉領事に就任。

第二次世界大戦勃発に伴い、1939年には日本とトルコ間の通商関係はな
くなった。大戦末期の1945年(昭和20年)にはトルコ大国民議会が日本
との断交を決議。駐トルコ日本大使館は閉鎖され、2月23日にトルコは日
本に宣戦布告した。

昭和23年(1948年)、寅次郎は三島製紙(現・日本製紙パピリア)の会
長を辞任して実業界から離れ、以後は茶道に専念、90歳で没した。

寅次郎の息子である山田宗囲(宗偏流10世家元)が1975年に家族連れで
トルコを訪問した際には、大歓迎されたという。孫(宗囲の娘)の和多
利月子は、ワタリウム美術館を経営する和多利家に嫁ぎ、4人の子育ての
傍ら同美術館のディレクターを務め、2015年には「山田寅次郎研究会」
を主宰し、2017年に寅次郎の足跡を追った『明治の男子は、星の数ほど
夢を見た。』(産学社、2017年10月)を出版した。<以下略>

        フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山田寅次郎の本
自己啓発書のベストセラー

         ☆—————————————-☆

★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

「100円ショップと99$ショップ」

日本に一時帰国して思ったことは100円ショップが豊富な種類で充実して
いることです。

これが100円で買うことができるの?

同じ品物がニューヨークでは3倍から4倍の値段で売られているのでショ
ックを受けました。

あれもこれも欲しくなり3千円以上も買ってしまいました。

アメリカの99$ショップは安物、使い捨てと考えていたほうが良いかも
しれません。

時差ぼけが解消されたらまた日本へ帰りたくなってしまいました。

                  Keiko

★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?「名言集」の宮口です。

年々、忘年会も減ってきて寂しい限りです^^;
ところで、平成最後の締めくくりを飾った今年の漢字は「災」に決定し
ましたね。人災や天災の続いた年だからという理由です。なんとも切な
い気持ちです。

※「災」の意味は、「燃え立つ炎」の(「火」の意味)と「川のはんらん
をせきとめる為に建てられた良質の木」の象形(「わざわい」の意味)か
ら、傷害・疾病・天変地異・難儀などをこうむること。悪いできごと。
不幸なできごと。まがごと。災難。

★皆さんのメールが何よりの励ましです。
出来る限り、お返事は差し上げますのでお気軽にメールして下さい。
当メルマガで掲載させていただくこともありますが、匿名希望と書いて
いただければ実名を出すことはありません。

まずは自分自身を信じ、愛することから始めよう!

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編集後記+++++++++++++++++++++++++++++

世の中には人間の一生をも左右してしまうような、心の底から魂を揺さぶら
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あなたも辛い時や悲しい時、何気ない一言で勇気づけられた経験はないだろ
うか?

仕事をしながらメルマガを発行しようと決意したのは、そういう名言の数々
を一人でも多くの方々に紹介したいと思ったからです。
今までの仕事だけの人生に物足りなさを感じていたということもあります。

「生きることとは自分自身を表現することである!」と言ったのは誰だった
ろう?自分自身を表現することにより、ほんの少しでも周りの人たちを幸せ
にするお手伝いが出来れば望外の幸せです。

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